脱力した人の日々。

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本田由紀『もじれる社会: 戦後日本型循環モデルを超えて 』

 

 

もじれる社会: 戦後日本型循環モデルを超えて (ちくま新書)

もじれる社会: 戦後日本型循環モデルを超えて (ちくま新書)

 

 

目次

第一章 社会の「悲惨」と「希望」第二章 戦後日本型循環モデルの終焉

第三章 若者と雇用

第四章 教育のアポリア

第五章 母親・家族への圧力

  著者の本田由紀先生が2008年に刊行した『軋む社会』以降に、様々な媒体で掲載したものを集めた書籍。よって、各章が独立した内容だと思っていい。まずは僕が各章を読んだ感想を記す。

 

第1章

 出だしの章らしく読みやすい内容。さっと読めます(事実、分量が少ないし)。印象としては、論考と言うよりエッセイに近い。堤未果さんの本を読んでいるような感じだった(実際に堤さんの『社会の真実の見つけかた』の話が出ているし)。悲惨さが覆う今の世の中でも「社会をよりよくしたい」と行動する人は多いし、そこに可能性を見いだしたいという著者の心情が伝わってくる(具体策がどうこうという話はないけれど)。

 

第2章

 今作の核心的内容とも言える部分。章前半の対談部分については、教育社会学をまだよく知らない教育学部志望の高校生たちに一読をお勧めしたい。教育社会学という一見、その射程がわかりづらい学問領域の姿がここを読むことによって見えてくる。メリトクラシーなどの重要概念も出てくるし。そして、本田先生独自の関心事である学校の外にある社会領域(例えば「労働」や「家族」といったもの)から教育を捉え、現在の教育の歪みをあぶり出しているという主張がこの章の鍵なんだろうなと思う(本田先生の現在の研究の枠組みは、修士時代にパーソンズルーマンを学んだことに端を発したということに個人的に驚き、少なからず共感を抱いた)。

 そして、章の後半は、著者の広い射程での研究対象となる日本社会の構図、すなわち「戦後日本型循環モデル」の概説へと入っていく。

このような循環が、教育・仕事・家族という三領域の間で成立していたため、日本の政府は公共事業を代表とする産業政策を通じて仕事の世界を支えてさえいれば、教育や家族に対する直接の財政支出を低水準に抑制することが可能だった。

 ”このような循環”とは、仕事(父)が労働力となって賃金を作り、家族(母)はその賃金で教育にお金をかけ、教育(を受ける子)は新規労働力となって社会に入っていくという循環である(僕なりの解釈も含んでます)。本田先生は、この循環モデルには「何のために仕事をするのか,何のために人と愛し合って一緒に住むのか」という人間にとって大事な価値観や存在意義を掘り崩すように作用していたことを問題視している(長時間労働などがその実例)。そして、現在はこの循環型モデルが破綻しているという指摘が続く。さらには、この日本型循環モデルの破綻が引き起こした危機は相当に深刻であるという主張がこの後述べられている。この暗く辛い事態を癒してくれる処方箋はないのだろうか。読みながら中々憂鬱な気分にさせられてしまう。とはいえ、教育者の端くれとしては、「垂直的多様化」(格差の進行、それによる排除の原理)の進行を食い止めるような教育的施策をもっと真剣に学ばなければならないということを心に留めておきたい(本書では仕事と教育の双方向的な取組としてリカレント教育の拡充などが具体的に挙がっている)。

 

第3章

 第3章は日本の若年層の労働観について。特に著者が重視するのは若者の「能力発揮」意識についてである。本田先生の分析によれば、「能力を発揮したい」という意識は数十年来、日本の若者はずっと一貫して高く持っているという。しかし、現在では、その意識こそが危険な考え方ではないだろうかと著者は読者に伝えようとしている。

 しかし、「能力」の発揮がまさに個々人の能力に即して個別的になされるものであるという考え方があまりに強い場合、それは「能力」の形成・発揮・処遇をめぐる社会制度や組織―主には仕事と教育―のあり方を不問にし、個々人がそれぞれに自ら「能力発揮」を追求すれば良いという考え方に結びつく結果になる。

本田先生の言葉をさらに借りるならば、「能力発揮」という一見ポジティブな意識が、実は「自己責任」と機能的に等価な作用を持ち合わせているのだ。そういった自己責任の原理は今の日本社会に浸透しているものだ(と僕は思う)。「自己責任」ばかりが強調される社会とは何とも寂しいものである。

 

第4章

  第2章では、”教育社会学に興味を持つ高校生”などにオススメであると書いたけれど、この章は高校生を教える立場、すなわち「先生」に読んでほしい内容。この章で特に注目したいのは、普通科教育、キャリア教育の問題点を抽出し、日本の<教育の職業的意義>の希薄さを訴える部分*1。教育には、社会に出る学生たちに将来の職業生活を準備させる使命がある。とは言っても、著者は、社会に出る準備=経済領域の論理に従属させるようなこととは想定してはいない(当然だが)。教育の論理は、教育の対象である生徒個人を現在よりも望ましい状態に導くよう働きかけることであり、収益の最大化という経済の論理の中に個人を埋没させてはならないのだ(これについては僕も全くの同感)。だから、職業に就く上で適切な行為を選択、実行できる力を個人に身につけさせるだけではなく、職業にまつわる諸条件をより妥当で適正なものとして要求していけるような力を身につけさせるという側面をもっと大事にせねばならないのである。この主張を読めば、現在のキャリア教育というものが「ふわっと」した印象になってしまうのは僕だけだろうか*2

 

第5章

 第5章は母親の子育て、つまり「家庭教育」について。全体的に読んでみて気づかされるのは、(本書でも述べられていることですが)日本では社会の歪み、うまくいっていない問題の原因が個人に求められてしまっていることだ。「個人」で話が終わってしまうかぎり、家庭の中での苦しさや家庭教育の問題点も母親の責任という面ばかりで話が終わってしまう。周りのサポートもなく子育てに苦しむ家庭もあれば、ある程度豊かな層だけが教育に資本を投下できる人々もいる。この社会の断絶(階層化の進行)が果たして「生きやすい社会」なのか。学校の先生からすれば、教育の責任を「学校」だけに押し付けず「家庭教育」も大事だろうという声が挙がるだろうが、家庭教育もまた重度な個人への責任を押し付けられていることに気づかされる。

 

まとめ

 タイトルの「もじれる」とは”ねじれる””よじれる”という従来の意味に加えて「もつれ」「こじれ」という日本社会の様子を表すための言葉らしい。僕たちは、どことなく薄暗い気持ちで日本社会の中で生活しているが、その薄暗い気持ちはどこから来ているの?という疑問に社会学の立場から答えた本だと言える。一見順調そうに見えた「戦後日本型循環モデル」は家庭、教育、労働のそれぞれの現場で破綻をきたしている。 そこからどう歩めばいいのか、本田先生はご自身の考えを示しているが、あくまでヒントであって解決策そのものではない。解決策は読者たる僕たちが自らの生活で示していかなければならないのだろう。ただ読んで終わりなのではなく、重い課題への行動を促してくれる新書である。

 

*1:本田由紀『教育の職業的意義』(ちくま新書)も読むといいのだろう

*2:本田先生はこの側面を「抵抗」の側面と名づけていたが、それだと労働者の社会運動というイメージが強くて、若い世代に受け入れられないよう気もするが。