読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

脱力した人の日々。

新書などの読書日記(書評)と教育に関するニュースのクリップを中心に。脱力系ブログ。

細見和之『フランクフルト学派 :ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(中公新書)<後篇>

 

 今回は後篇ということで、第4章を読んだ感想から。ここからは大著『啓蒙の弁証法』から現代における「フランクフルト学派」の展開に至るまでが書かれている部分である。

 第4章

 1947年に出版された『啓蒙の弁証法』は、ホルクハイマーとアドルノの共著で、「いったい文明化の歴史とは何だったのか。二〇世紀の経験が私たちに突きつけるこの問いを考えるうえで」(本書より)、この『啓蒙の弁証法』が大きな示唆を与えてくれる。興味深いのは、「共著」という意味を通常よりも厳格に受け取るべきだとする著者の主張だ。つまり、ふたりの論文をひとつにまとめたというのではなく、ふたりの綿密な共同の討議を経て仕上がったというのである。そして、この指摘が興味深い理由は、章の前半部分を読めばわかるだろう。当初からホルクハイマーとアドルノは共著を出そうというわけではなかった。ホルクハイマーが共通の研究を行おうとしていたのはマルクーゼという人物だった。マルクーゼは哲学専門の学者であったが、徐々にワシントンでの戦争による政務で忙しくなり、ホルクハイマーとともにカリフォルニアで研究を行うことができなくなったとされる。一方で、ホルクハイマーは第二次世界大戦という深刻な事態を目の当たりにして「権威主義的国家」の概念を打ち出す。この思想の変容は、進歩というへの批判として捉えられ、死んだベンヤミンの思想に近づいていった(というハーバーマスの指摘がある)。

 こうして、アドルノとホルクハイマーというふたりの知的な歩みが、ベンヤミンの思考を焦点として交錯したとき、『啓蒙の弁証法』が共著として書かれることになりました。

このような運命のいたずらというべきか、様々な出来事の交錯の結晶として『啓蒙の弁証法』が生まれたと思えば、この歴史哲学的考察の書の重み、意義が一層増して感じられる。

 

第5章

 第5章はアドルノの歩みとその思想について。「はじめに」で触れられた「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」についての検討、ハイデガー批判については当時のドイツの思想界及び文化の歩みをともに感じられる。そして、彼のもっとも重要なテーマである「同一的なもの」とその関連として「ミメーシスによる認識」を扱っている。この箇所は実例として子どもへの教育が挙げられているように、「国家」といったマクロの話だけでなく身近な社会の話である。特にミメーシスについては、古代ギリシアの頃の概念を「模倣」として結びつけるアドルノの思考が教育学にも大きな影響を与えている(僕もその片端なら勉強した)。他なる者と同一化したいのではなく、自分をむしろ他なる者へと異化するような衝動。このミメーシス概念は同一化する人間社会を克服できるとするその考えは、教育に携わる人にとって「均一化した教育」という批判克服にも適用できるはずだ。

 

第6章

 フランクフルト学派第二世代と呼ばれるハーバーマスについて。フーコーデリダらと論争をし、そこから新たな考えを汲み取る「論争家」としての彼の姿や冷戦終焉前後の鋭敏な「時評家」、「批評家」としての姿はハーバーマスを有名にしたが、この本ではアドルノらの思想を学問領域へと引き戻す役割を果たしたことにも触れている。生産的な学問研究にはなりえなかったアドルノの多くの論文をハーバーマスが紹介することで価値を高めることができた。この点は、実は彼の大きな功績なのだと知ることができる。著者自身、アドルノベンヤミンらに比べると微温的、常識的だという印象だったと書いているように、多くの人が「論争好きの良識的な哲学者」というイメージをハーバーマスに抱いているかもしれない(僕もそう)。ユダヤ人の出自である第一世代の学者に対して、ハーバーマスは本書でも扱われているように、父親はナチス支持者であり、戦後民主主義教育を胸いっぱいに吸い込んできた。それ故に思想的温度差があっても不思議ではない。しかし、だとしても、「コミュニケーション的理性」「討議倫理学」など様々な理念を提唱したり、デリダフーコーを相手に論争を展開したり、八面六臂の活躍によって大きな足跡を残してきたのは間違いないだろう*1

 

第7章

 最後の章は、フランクフルト学派の現在の姿を描いている。個人的にはホネットの思想は詳しく触れていきたいと思わされる。ヘーゲルの(さらにフィヒテの)相互承認の思想からハーバーマスのコミュニケーション的行為へとつながり、社会的な抗争の根底には承認の欠如があるのではないかという問題点へと行き着くのがホネットの構想の出発点である。「承認」だけが私たちの社会の重大な問題ではないとも思うが、ホネットの「承認をめぐる闘争」として哲学的に現在展開される社会運動を位置づけることは、ヘーゲルの共同体的承認論の再評価とともに注目すべきことだろうと思う。

 

読後の感想

 あらためて『啓蒙の弁証法』を貫く一つの問いというものを取り上げると、「なぜ人間は野蛮な状態に落ち込んでいくのか」ということに集約されている。第二次世界大戦で嫌なほどその問いを突きつけられた人類はその答えを見いだし、改善策を今の世に示しているかというと積極的にYesとは誰も答えられない。特に日本は原爆という言い尽くせない悲壮な出来事の被害者でありながら、一方でヨーロッパ的な文明・文化を受容したという限りにおいて、アジアでは加害者であるという面もある。その両面を持つ日本の特異な歴史をフランクフルト学派の視点から省みてみるのは僕たちの未来にとって決してムダなことはでないのだと思う。

 私たちの時代においては、ニコラス・ルーマンのシステム論とミシェル・フーコージャック・デリダの一連の批判的な仕事を等距離で見渡せるような視座が、最低限、必要であるに違いありません。たいへんな作業ですが、この日本でも、そういうハードルを軽々と越えながら、日本やアジアでの固有の体験にそくして、フランクフルト学派的な思考が展開されることを期待したいと思います。

 僕も同じく期待したいです*2

*1:本人は「フランクフルト学派」第二世代と呼ばれることに否定的だけど

*2:僕も勉強します(汗)