脱力した人の日々。

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山野良一「子どもに貧困を押しつける国・日本』 (光文社新書)

 

子どもに貧困を押しつける国・日本 (光文社新書)

子どもに貧困を押しつける国・日本 (光文社新書)

 

 目次

第1章 今なお日本は「子どもの貧困」大国

第2章 最低の保育・教育予算 最高の学費

第3章 報じられた子どもの貧困問題

第4章 家族依存社会の生きづらさ

第5章 貧困対策とコストパフォーマンス

  読み始めると、「あ、そうか。子どもの貧困とは親世代の低所得だけが問題なのではなく、日本の再分配政策がうまくいっていないから起こっている問題なのか」と気付くことができる。しかし、それは著者によると、前著*1で述べた主張であって、今回は別のところに本書の意図があるらしい。著者がこの本に込めたメッセージとは何なのか。

 

  この本は数多くのデータにより、日本に潜む「子どもの貧困」を詳細に著者自身の見聞を含めながら紹介し、読者に危機感を与えてくれる。第3章のなかでは、子どもの貧困が多様な社会問題の温床となっていることを最近の時事問題を取り上げつつ語られている。先に挙げたように現物給付という面でも現金給付という面でも教育、保育に十分な配慮、配分がなされていない実状をどうにかしなければ、子どもたちが不幸な時代は変わらないままだ。しかし、このような危機感はあくまでも問題の本質ではなく表面に過ぎないと思うのだ。子どもの貧困問題の本質は、第4章の章タイトルに表されている。

「家族依存社会の生きづらさ」

 この言葉は、まず先日に紹介した本田由紀『もじれる社会』にもとりあげられた親の過重負担となっている日本の教育の現状を思い出す。それは親の年収によって教育の質や量が決まってしまうということであり、また、育児を請け負う母親がいかに辛いかということも示している。しかし、本書はこの視角からの問題提起だけではない。実際に貧困の境遇に和えでいる子どもたちがどのような息苦しさやしんどさを感じているのか。そのような子ども視点での問題点をあぶりだしていることに本書の大きな特徴があると思う。

 「貧困は自己責任」という風潮が強い日本では、親たちが生活が苦しいことを自分のせいにして社会から孤立化して苦しむ姿が見られる。しかし、苦しいのは当然、親だけでないのだ。本書では、子どもたちが自身の貧困の生活による「恥ずかしさ」「屈辱感」からくる生きづらさ、あるいは自分の学業や生活よりも親の扶養義務や兄弟の進学を第一に考える「家制度」の犠牲への言及がなされている。

 親であれば、子どもに十分な教育を与えてあげたいと思う。自分の子どもには惜しげもなくお金をかける。それは親の立場からすれば当然のことだろう。一方で、貧しくて教育サービスを受けられない子どもがたくさんいる。もし、その事実に誰も関心を持たず、自分の子どもだけしか関心を持たない。もし、そうなれば―。そのような事態にはほぼ近いのが今の日本。著者は、そのような親や大人を「カゾクチュー」と呼ぶことを取り上げているが、その原因を「社会の子ども」、つまり子どもたちを社会の宝と捉えられないようになってしまっている日本の教育施策に求められるとしている。

 教育とは「一人ひとり」の子どものためであり、「社会全体」の幸福のためにもある。この2つの目的はともに成立しなければならないが、齟齬をきたしやすい。特に現在の日本は「養育は親の責任」という考えが強いがゆえに、「一人ひとりの子ども」を育てる意識ばかりが先行する。この点については学校の教師や社会の大人も大いに反省する必要がありそうだ(もちろん僕自身も)。しっかりとした子どもに出会ったとき、あるいは逆に問題行動を起こす子どもに接したとき、「家庭での教育は・・・」とすぐに「家での教育」に思いを馳せてしまうが、その考えこそがもしかしたら日本の教育の根本的な病巣なのかもしれない。ここに僕は日本の子どもの貧困問題の本質というか根源を見いだすことができると思う。親(家族)が子どもの人格の基礎を築き、学校が人格の完成をめざし、就業の訓練を行う。この役割はそうそう変わるものではない。しかし、その役割責任を周りが少しでも一緒に背負ってあげることで親もそして子もぐっと楽になるのではないか。そこにこの本のメッセージがあるのだろう。

 子どものリアルな心情にも近づくことで、この本は単なる日本社会の現状を分析しただけでは終わらない良書になっている。繰り返し取り上げるけれど『もじれる社会』と合わせて読むのがオススメです。


本田由紀『もじれる社会: 戦後日本型循環モデルを超えて 』 - 脱力した人の日々。

 

*1:『子どもの最貧国・日本』(ちくま新書)